言いたいことやまやまです

仕事をやめ、誇りを持って主婦として生きることにした1985年生まれ。金儲け臭ゼロのブログで生きざまを書き綴っています。お金はいつでもほしい。

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美術の醍醐味は「騙し騙され・損して得して」。失敗なくして価値観は磨けない

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こんばんは、価値を考える時間です。

2019年3月28日に放送されたTBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ!」のコラム。山田五郎さんは最終回で「若い人に想いを託して去っていきたい」として、「失敗を恐れず自分の頭で考えよう」という「価値観」の話をされました。

 

アートの価値とは

「この作品、いくらくらいの価値があるんですか」
「この作品、本物ですか」

美術評論家でもある五郎さんに寄せられる2大質問です。

いくらか、と尋ねられたときに必ず返す答えは

「あなただったらいくらで買いますか」

なのだとか。

「アートの価値」に対する見解の違いがあきらかです。

「いくらの価値があるのか」という質問のもとには、「アートの価値は市場や他人の評価で決まっているもの」という考えが根付いている。一方で五郎さんの回答からは「アートの価値は自分で決めるのだ」という意図がみえる。

「知識がないから後学のために教えてほしいと言うかもしれないけれど、それって意味ないんですよ」

歴史的な意義は教えられるかもしれないけれど、その「価値」は教わるものでなく考えるもの。

様々な作品を鑑賞し、「こういうところを見ると面白いんだな」と目が養われていくのが美術鑑賞の醍醐味であって、「高額だからよい作品」「あの偉い先生がよい作品だと言っているから、価値あるものだ」といった「価値判断の依存」は、美術の楽しみを自ら捨てているようなものだとお話しされていました。

もうひとつの質問「これは本物ですか」も、価値を他人に委ねていることのあらわれです。

なにを以て本物とするか。

私は昨冬「ルーベンス展」に行きましたが、飾られている作品はしばしばルーベンス自身ではなく彼の「工房」で手がけられたと記されていました。お弟子さんたちが描いているわけです。ルーベンスさんは弟子が提出した絵を見て「はいオッケー」と言っただけかもしれない。その場合、それは「ルーベンス作」なのか?「ニセモノ」なのか?

贋作のほうが立派だというケースもありますし、有名な画商のお墨付きが「画商の忖度」の結果であり本物ではない、という可能性だってゼロではありません。

一流の美術館に長年飾られていたにもかかわらず、後年になって贋作だとわかる例もたくさんあるのだとか。サザビーズなどの一流オークショニアだって、「真贋については保証できない」と明言しています(初めて知った!)。

五郎さんは、これもまた「古美術骨董の醍醐味」と話されました。

騙し騙され、損し得しがあるからおもしろい。間違えずに確実に買えるなら”ただの買い物”ですよ。クーラーとか買うのと同じ」

ものの価値とは

目の前にポルシェの車があるとして、それはあなたにとってどのくらいの価値があるものでしょうか。

運転できず、駐車場もなく、車に興味のない私にとってはほぼ無価値です。誰かに売ると思います。

美術に限らず、あらゆる「ものの価値」は市場価格や他人の評価では決まりません。自分の経済力・好み・必要度によって、それぞれに価値は異なるからです。

ご自宅にワンダーコアやアブトロニックは眠っていませんか。我が家にはワンダーコアスマートがあります。誇りをかぶっています(誰か要りませんか)。

こうして、要らぬものを買ってしまって「損した!」と思うことは誰にでもあるはずです。失敗しない人はいないでしょう。でもその経験によって、自分の価値観が磨かれる。たぶん私は腹筋強化マシーンを再び購入することはないし、家でのトレーニング器具自体、もう買わないかもしれない。そうしたものが自分のライフスタイルにマッチしていない、すなわち私の価値観とは合わないとわかったからです。

「美術の鑑賞眼を養うには、できるだけ観て、できるだけたくさん騙されるのが大事」

騙されると悔しいから、必然的に目が磨かれる。ロンドンのナショナル・ギャラリーには「贋作展示室」なる場所があり、どうして騙されたのかが書かれていてとてもおもしろいのだというエピソードとともにこうお話しされていました。

「美術でも仕事でも、自分の頭で判断して、自分の価値観で判断して、何度も失敗して成長していくのがおもしろいんです」

日本人の最適解「みんなと同じ」ってどうなの

でもみんな、失敗はしたくありません。その結果としての「人気飲食店の大行列」「就活生のクローン化」にも話が及びました。

みんながよしとするものを追体験するだけでは成長がない。感動がない。価値観が磨かれない。名店を食べ歩けば舌が肥える、ダメなものを食べると味覚がダメになるなんてのは大間違いで、高いお金を出したのに大したことなかったなとか(ただし別の人にとっては”確かに一流だった”という感想になるかもしれない)、このお店ガラガラなのに最高にうまいなとか、自分自身で判断できるようになる過程がおもしろいのです。人生を豊かにするのです。

就活は「自分を選んでください!」というイベントにもかかわらず、皆が(疑問無く)同じ格好をする。金髪の就活生が来たら、問答無用で「こいつはマナー違反だ!落第!」と(疑問無く)判断する面接官がいる。金髪の彼にはとんでもなく熱いポリシーがあるかもしれないのに。金髪にしたらいいということではなく、思考停止状態で「みんなこうすることになっているから」に流れるのはどうなのかという話です。

五郎さんは、なんでも事前にネットなどで最適解を探してしまう動きを憂いていました。

「若者に”こういうときはどうするのがマナーですか”なんて聞かれますけれど、そんなの”おまえが考えろ”!」

「自分なりの価値観」を受け入れてくれない社会だから、怖いのです。前述の金髪就活生にせよ、「みんなとちがう」を見つけた途端「場をわきまえていない」「マナー違反だ」とフルボッコです。鬼の首を取ったようにヒステリックになるさまは不安の裏返し。「みんないっしょ」という安全牌を捨て続けても、結局は絶対的な安心が得られていないから、誰かが「明らかに浮く」瞬間、すなわち「相手を糾弾でき、自分が優位に立てる場」がないかと目を光らせている(カルチャーセンターで麻雀を習っていたとき、覚悟して危険牌を捨てるとオバチャンに「あら、いいの?」って言われたなあ)。でも、それで判断を誤って叩かれたって、ロンされたって、死ぬような事態にはならないでしょう。まさに「死ぬこと以外かすり傷」!

失敗して成長することで人生が豊かになる

五郎さんはこんな風に締めくくられていました。

自分の頭で考えるの面倒臭い。

人に決めてもらったほうがラクだし、失敗のリスクがない。

判断を誤ったり失敗したりするかもしれないけれど、それでも自分の頭で考えることで価値観が磨かれる。

負けた悔しさで努力して成長するから、人生はおもしろい。

若いころにたくさん失敗しておいたほうが、その後の人生が豊かになる。

「34歳無所属」としての価値観を磨く

34歳にして、特殊スキルがあるわけでもないのに成り行きで「無所属」となってしまったわたし。

なんだかんだで焦りはあります。稼いでいない罪悪感。ベテラン働き人として、父ちゃん母ちゃんとして活躍する同世代に対する引け目。

でもそれって、件の「みんなと同じでないと不安」という思考停止状態です。

ちょうど昨日、「今、働く意味を変える」をテーマに掲げたセミナー*1に参加してきました。

そこでも「”自分自身の価値観”で戦う」ことを説かれたように感じました。相対評価ではなく絶対評価。自分で考え、自分で動く。

自分が行うことへの対価についても、どう請求したらいいかわかりませんでした。とりあえず作業時間を算出して、「まだ私は駆け出しだから最低賃金だよね……」などと、勝手に世間の顔色をうかがって「1000円×作業時間」で請求してみたり。こちらとしては腑に落ちない気持ちもあるけれど、世間的には私はそういうレベルだろうし、その程度しかもらっちゃだめだよな、なんて思っていました。そうじゃない、自分の価値観で価格を決めるんだ!

この歳でのゼロスタート、怖いです。でも今日が一生のうちでいちばん若い日。 自分の頭で考えて、失敗しながら成長して、人生を楽しみたいです。

 

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