言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

育児日誌ブログ「母になっても言いたいことやまやまです」を毎週月曜日に更新中!

Meは無Shock!~33歳凡人女、無職になる~

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こんばんは、「職をとりもどせ!!」の時間です。

2019年3月1日より無職になりました。

明日を、見失った……と歌いたいところですが、そういうわけにはいきません。

 

歳を重ねたから無職を選べた

前職の在籍期間はわずか3ヶ月です。これだけの短期間で辞めることも、次の仕事が決まっていないうちに辞めることも、初めてです。「選ぶべきは安牌」をモットーに生きてきたものですから、こんな選択をする日が来るとは夢にも思いませんでした。

社会人生活は10年以上。過去の職場でしんどい想いをしたこともあります。夢のなかでも上司に小言を言われ、半泣きで目覚めて、「絶対に会社辞めてやる」と思いながら出社する日々もありましたが、「次の身の振り方も決まっていないけど、とりあえず辞める」なんてことはしませんでした。

なにせ私は、超強力な「相対評価のものさし」で生きているのです。周囲と比較しては、自分を憂いて生きてきました。だから安易に離職しようものなら「働いて、稼いで、自力で生活しているみんな」と「働きもせず親にすがって生きる自分」を対比して、鬱々と過ごすことが目に見えていました。それが怖くてふんばっていたところがあります。

……が、34歳になる今年、次の仕事も決まっていないのに辞めてしまいました。

よく考えたら怖いことです。だってもう若くはありませんもの。誇れるスキルもないのに会社から飛び出して、無駄に年齢だけ重ねた独身女に何ができるだろうか。昔の私に蔑視されること間違いなしです。そんな過去の自分に言い返せる言葉があるとしたら、これを選びます。

「考えてたって何も始まらないのよ」。

ちょっと気だるく、モスコミュールなどを口につけて大人の色気とともに伝えたいところなのですが、せんべいをかじりながら、背中を掻きながらオバチャン全開で申し上げております。

退職に際し、もちろんいろいろ考えました。そのなかのひとつの意見が「このまま働き続けても、自分の人生が前進しない」だったのです。そこまで言うなら、辞めてみましょう……で、いまに至ります。どれだけ考えたところで、その思考が必ず頭をもたげてきたからです。なら、伸るか反るかはわからないけれど、やってみないと納得できない。

(とはいえ自分ひとりの暮らしでは、この選択を採用しなかったことでしょう。同居人の扶養に入れることがわかったこと、彼から離職に対しての同意を得られたことが大きなチカラとなりました。相談にもずいぶん乗ってもらいました。ひとまず社会保険はそちらのお世話になり、ハローワークに行き、失業手当をいただく準備を済ませます。どれだけ感謝してもたりません。)

私は自己都合退社ですので、失業手当が出るまで3ヶ月間待たねばなりません(会社都合だと、すぐ手当がでます)。ただし手当が出始めると扶養条件の収入上限額を上回ってしまうので、こんどは扶養から抜けなければならないのです。そんなことまったく知りませんでした。世の中知らないことだらけです。

そこで、何度も手続きするのは面倒くさいので、3ヶ月の手当待機期間を「タイムリミット」だと思うことにしました。失業手当が出始める前に、職をとりもどす!そしてハローワークから、再就職お祝い金をいただくぞ!

どんなふうに生きていきたいか

会社に入っておけば、安心。

ある程度の年収があれば、快適。

お給料は、ガマン料。

そう思いながら生活してきた結果、心のなかで「違う違う、そうじゃない」と鈴木雅之以上の回数を歌ってきたのではないかと思います。任務を与えられるたびに、どこかで「こんなことがやりたいんじゃない」という渋い顔をしていました。

プロ意識を持てない自分にコンプレックスがありました。マーケティング担当になっても、広報担当になっても、その道を極めようという努力を惜しんでしまうのです。「歯車として、自己なく物事を進行できれば十分でしょう?」というスタンスです。本当に無事故ならよいですが、大小の違いこそあれどミス自体は経験があります。歯車としても成立していないじゃないか!情けないものです。正社員というポジションに甘え、努力を惜しむ社員でした。私が経営者だったら、かなり嫌です。

「こんなことがやりたいんじゃない」と言うけれど、じゃあ「こんなこと」とはなんなのか?何ならやりたいのか?そう問われると言葉に詰まりました。モヤモヤした想いがあるのは確かなのですが、その内容が自分でもわからないのです。何年も、そんな状態でした。

しかし歳を重ね、カウンセリングやコーチングで自分に向き合ってきたいま、昔よりは「やりたいこと」……否、「できないこと」が見えてきました。

「誰かのためにがんばる」ことができないのです。

会社のために!お客さんのために!みんなのために!というのが、あまりモチベーションになっていない。むしろプレッシャーだったり、最悪の場合は”使われている感”が大きくなってしまったりです。新卒採用ページの「先輩社員の声」で「自分が企画したものがお客さんによろこばれたとき、やり甲斐を感じた」といったコメントを見かけたことはないでしょうか。あれを見るたび、「私はとてもそうは思えない……」と申し訳ない気持ちになりました。

仕事を通じて「やり甲斐」なんてたいそうなものは感じたことがありませんが、働いていて、好きな時間はたくさんありました。大好きな先輩・同期・後輩たちと喧々諤々話し合っているときや、私が作った資料が彼らの役に立ったときです。それよりも大きな話(お客さんの反応やら、売上やら)になると、一気に他人事のような感覚になっていきました。目の前にいる誰か、までしか想いが馳せられないのです。「上司のためではなく、その先にいるお客様のために働け!」という正論のボールが投げられると、打ち返し方がわからずデッドボールで処理するよりほかありませんでした。「社会人失格」「いい歳して情けない」「無責任な仕事をしてしまっている」と罪悪感が募るばかりです。

趣味のほうでも、依頼を受けて第三者に徹して取材記事を書くより、「自分全開」でブログ記事を書いているときのほうが(お金にはならないけれど)よろこびを感じます。ましてやそれが、たまに「おもしろい」「考え方の参考になった」などとコメントをいただくことがあるのです。そのときのうれしさといったら!

結局は「誰かのためにやる」ではなく「自分がやりたいからやる」ができているときに、心地よいということです。このあたりに、一生懸命に仕事ができるかどうかの境界線がある気がしました。

そこでためしに、自分が筋金入りの「自己中」であることを思いきり受け入れてみようと思ったのです。どこにも所属していない、無職のいまだからこそ。

働きとよろこびの関係として、自然なのが

【誰かのためにがんばる→喜ばれる→うれしい】

という流れであろうと思います。でも私のよろこびは

【自分がやりたいことをがんばる→図らずも喜ばれる→うれしい】

という流れで生まれている。「誰かのために」と思うと、むしろうまくいかないのです。

「自分のやりたいことだけやって、それが仕事になるだなんて都合のいい話があるもんか!」「甘えたこと言ってんじゃねえ!」Yahoo知恵袋あたりから、そんな声が聞こえてきます。会社員時代は、私も自分自身にそういう声をかけて、おしりを叩いていました。子どもみたいなこと言わないでよ!と。

でも本当は、「自分がやりたいことをがんばる→図らずも喜ばれる→うれしい」という流れで仕事がしたい。その気持ちを捨てきれずにいます。

何をやりたいか

私がやりたいこと。小さいころからずっと「方向性」は変わらないのです。会社員生活中にそれを表にすることはありませんでしたが、本当は「自己表現」がしたい。このブログはその一端です。

なんでも、捉えかたによっては自己表現に紐づくと思います。たとえば会社員で営業部に所属しているとする。その場合は「営業スタイルだって自己表現じゃないか」といった具合です。でもそういう、「視点の切り替え」ではもう自分をだませなくなってきました。どうしたって目立ちたがりで、かまってちゃんなのです。

小学生のころの私は、34歳の私が「目立つ何者か」になっていることを望んでいました。だけど私の努力不足で、なにも大成しなかった。会社員生活も受動的に過ごしてしまって、飽きて、転職の繰り返しです。そのときどきではやる気を持っているつもりだったのですが、いま「自己中な自分を認める素直な気持ち」で振り返ると、「甘えたこと言うな!」という世間の声を持った自分が、正直者の自分をぶん殴りながら気合を出させていただけだったのではないか……と思うのです。

結局、何者にもなれずにいまに至ります。Facebookで同級生たちが「いまこんな仕事をしています」という立派な投稿をしているのを目にするたびに、消えたくなります。

……いや、違うぞ!「消えたくなり”ました”」!。過去形で表現します。「何者にもなれなかった自分」そのものを「ウリ」にしてしまえと思うようになったからです。

もちろん人生遅すぎることはありませんから、いまから何かを学び、その分野のベテランになる道もあるでしょう(やってみたいことも、確かにあります)。だけど「まさにいま」の自分をどうにか活かしたい。いまの自分で「自己表現」をして、それが図らずも誰かに喜ばれるようなものにできないか。そんなことを考えているうちに、「何者にもなれない、凡人の自分」を自己表現のテーマにしてしまうことを思いついたのでした。

34歳にもなると、周りは立派な人ばかりです。仕事面もですが、お子さんのいらっしゃる方も立派そのもの。子育てにかかる時間・お金・メンタル。仕事をしながらこなす方々を、もれなく尊敬します。

仕事も子育ても何もできない自分は「スキル」で商売することはできません。だけどそんな凡人としての日々、すなわち「凡人魂」を燃やす様子が、誰かの役に立つのではないか?「私なんて……」と心やさぐれてしまった人が、私が発する情報を見て「こんな奴もいるんだから、まあがんばってみるか」と思ってくれたら!夢物語にもほどがありますが、そんなことを思っています。

※ほそぼそと運営しているポッドキャストの下記回でも語りました。

anchor.fm

こんなことをがんばります

1)ブログのポータル化

ブログはもはや私の分身です。「私がどんなふうに自己表現をするのか」が詰まっている。これを見てくださった方が私に興味を持っていただけたらとてもうれしいので、見ていただくきっかけを増やせるようにカスタマイズします。アフィリエイトは向いていない(自分が興味を持っていないと全く書けない)ので、内容は現状維持です。

2)機会をいただけるなら外部メディアに寄稿

「体当たりエッセイスト」を自称し、各種体験のレポート記事を書いていきたいです。第三者的な記事ではなく30代凡人女の体験談として、当事者視点での記事を書きたいです。
「この人に体験レポートを書かせたら面白そうだ」と思ってもらえるように、2)のためにも1)をしっかりがんばらなければ。

3)資料作成

新卒で広告制作会社に入社して以来、ずっとPowerPointで企画書を作ってきました。広報担当になってからはプレスリリースもPowerPointで。パワポが大好きです。メモ書きのパワポ化、サービス内容のペライチまとめなど、代行させていただけるならぜひやりたい。

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まだ自分の力量(クオリティ・スピードともに)が客観的に見定められないのですが、ココナラなどに出品できるようにがんばります。

とはいえデザイナー経験もなくAdobeソフトも使えないので、デザインセンスで差別化することは難しい。PowerPointに加えGoogleスライドを使えるように勉強します。WinユーザーなのでKeynoteは当面着手できなそう。

就活も…

離職にあたり社会保険のことなどを見直し、会社員生活がいかに安定しているかを目の当たりにした以上、企業への就職の道も模索します。

罪悪感を持たず、恩恵に堂々と浴す

扶養に入れてもらって、そのうえ「やりたいことを仕事にしたい」だなんて、我ながら甘ったれているなと思います。無職になって本日で3日目が終わろうとしていますが、どこに行っても「この人は働いている、私は働いていない」「働かざる者食うべからず……」なんて思ってしまって、罪悪感に苛まれます。

でもあえて「罪悪感を持つ自分」に「罪悪感なんて跳ね除けて、堂々としろ!」と激を飛ばしたい。だって同居人からの理解は得ているのです。謙虚と卑屈は違う。感謝を込めて日々を過ごしますが、罪悪感を持つのは違う気がします。いろんなめぐり合わせで、いまがあるのです。数年前の私はひとりぼっちでしたから、(親を頼る以外には)扶養に入る手段はありませんでした。この立場に身を置けるという権利を有しているいまに感謝し、恩恵にしっかり浴して、そのぶん、満足いく道を選びます。

※最後に、いつも励ましてくださる皆さま!

私が仕事に悩むウジウジ記事にお付き合いくださる皆さま、激励のコメント・メールをくださる皆さま、本当にありがとうございます。ひっそり、キャプチャを取って見返して自分を励ましています。生きていていいんだ、無価値じゃないんだ、と安堵できるひとときです。

いままでに経験したことがない茨道に片足を突っ込んでいます。自分でもどうなるかわかりません。またウジウジする日が絶対に来ます。そのウジウジも含めた生きざまを主にブログでコンテンツ化していきますので、証人になっていただけるようでしたら、こっそり見届けていただけたら幸いです。

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