言いたいことやまやまです

仕事をやめ、誇りを持って主婦として生きることにした1985年生まれ。金儲け臭ゼロのブログで生きざまを書き綴っています。お金はいつでもほしい。

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ありがとうって言いなさい

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こんばんは、親御さんの「ほら、ちゃんとお礼言いなさい!」って言われてからの「ありがとう」がイマイチうれしくない時間です。

プレゼントを贈る機会があり、お渡ししたいので会いませんかと連絡したところ、「うん、いいよ」という旨の返事がきました。

ちょっとガッカリしてしまいました。いや、うんとガッカリしました。なぜって、礼の一言もなかったからです。そこは嘘でもありがとうくらい言わんかいと思ってしまった自分がいたのです。

既にお気づきでしょうが、私のほうが「駄目」です。

贈り物をするのは完全に私の都合。先方に頼まれたわけではありません。なのに、「1,2,3」と言ったら「ダー!」で呼応してもらわなければならないかのように、「私の贈り物」に対し「礼を言うこと」を求めてしまっていたのです。

勝手に行動して、勝手に期待して、勝手にがっかりして、なんなら多少の苛立ちまで覚えるという滑稽な事態に陥りました。

托鉢をする信者たちは、お坊さんに食糧を「分けてあげている」ではなく、食糧を「分けさせていただいている」のだといいます。彼らは「いいことをさせてもらう」ことに感謝しているのです。

頼まれたわけでもない贈り物をするとき、それは托鉢と同じ心持ちで臨むべきなのでしょう。礼を言われないからといってしょげるなんて、お門違いなのです。

でも逆に言うと、「ありがとう」のひとことにはそれだけ価値があるということでもあります。ありがとうの一言でやりがいや喜びといったプライスレスな報酬を得ることができる。そしてそれはお金と同等、もしくはそれ以上の効果を発揮することもしばしばです。

生き血を求めるドラキュラのごとく、活きた「ありがとう」を渇望する者として、まずは自分が「ありがとう」をちゃんと言うようにしたい。我が出っ歯とともに。

33歳独身女がいまさら決意表明するものでもありませんが、33歳にもなってしまったからこそ、いろんな「このくらい、やってくれて当たり前」が増えている気がするのです。ちょっとしたことに「ありがとう」。エレベーターを開けておいてくれた方に「ありがとう」は基本です。でもそれだけで、開けている人はちょっと報われるはず。少なくとも私はそうだ。

私のような「ありがとう」の”たかり”はだめです。おい、ありがとうをよこせ。持ってんだろ、ありがとう。そんな具合で発せられるありがとうには価値がないのです。そしてそうやって礼を求めてしまうときは、本心では自分が善行を行いたくないときです。

誕生日プレゼントを贈る、手土産を渡す、飲み屋で気を利かせる、他人の仕事を引き受ける……自分がやりたいと思っていないことはやらない、という勇気も必要だと思います。結局それって、「いい人だと思われたい」「ちゃんとしていると思われたい」といった具合の「自分のための行動」だからです。そりゃ、おまえにありがとうは差し出せねえぜ。

今週のお題「わたしのモチベーションを上げるもの」