言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

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正しい自己肯定感を養えているか?(デイ・キャッチ!宮台真司さんコーナーのメモ)

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こんばんは、自己肯定感の時間です。

14日(金)放送のTBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ!」、宮台真司さんのボイスのコーナーにシビれて数回聴き返しました。記憶にしっかり留めておきたいので、メモします。

▼音声はこちらから聴けます
社会学者・宮台真司が中学教育から「日本の自己肯定感」を考える
※ちなみに中学教育の話には及んでいない

 

「自己肯定感(尊厳)」とは何か

社会学者のニコラス・ルーマンによれば、自己肯定感(尊厳)には2種類あります。

A)自由な試行錯誤によって養われたもの

B)崇高なものと一体化することによるもの

AがあればBは不要。Bというのは、Aのない人が埋め合わせで使っている「尊厳」です。

Aというのは、平たく言うと「あれこれやってみることで培っていく自己肯定感」です。自分で考えて、結果うまくいったりいかなかったりするけれど乗り越えて、また新たなチャレンジをしてうまくいったりいかなかったりするけれど乗り越えて……と繰り返していくうちに、その自己肯定感はどんどん分厚く、強固になり、どんどんいろんなことができるようになります。

だから、どんな権威にも折れない。「長いものに巻かれなくたって、自分は大丈夫だ」という自信を持っているからです。

Bは「大きなもの(権威、組織、思想など)に頼る自己肯定感」のことです。宮台さん曰く「大きなものに頼る”ヘタレ”」。すべての基準は「大きなもの」であり、「自分」を持っているように振る舞っているけれど、実際のところは持っていません。

対人関係になぞらえるとよくわかる

対人関係にも同じことが言えます。

社交術とは「相手に”自分はひとかどの人物だ”と思わせる力」のことです。「相手にイエスと言わせる力」ではありません。

宮台さんは授業中に「なぜ(自己肯定感の低い)日本人はナンパが下手なのか」という話をするそうです。ナンパがイメージしづらいなら、”営業”に置き換えてもいい。これが下手な理由は「相手の具体的な反応に一喜一憂するから」

冒頭の「自由な試行錯誤によって養われた自己肯定感」があれば、相手の一挙手一投足は気になりません。相手に、自分は一人前であると思われているという自信があるから、些末な反応などでは動揺しない。「ああ、そういう見方もあるよね」と思って終わりです。

でもそれがなく、「崇高なものと一体化」することで自己肯定感を得ている人たちは、相手の反応(≒崇高なもの)に縋るのです。喜ばれたり興味を持たれたら自信が湧き、否定されたり無関心だったら「私はなんてダメなんだ」と絶望します。私はナンパに向いていないんだ、という極論に至ってしまったりする。

後者の判断基準は、とにかく「自分の外」にあります。大勢の考えに自分の思考を合わせ、そぐわないマイノリティを見下したり非難したりする傾向もある。

たとえば、社交術のツールのひとつである「ドレスコード」について。

ラジオでは、F1のモナコGPの話が紹介されました。取材スタッフがスタジャン姿で向かったら、「ドレスコードをわきまえろ!」と非難を浴びることになったのだそう。

宮台さんは、「ドレスコード」とはあくまで社交術のツールにすぎないのだと強調されました。「自分は一人前の人物である」と思わせるためのツールにすぎない。「ドレスコードを守ること=社交術 ”ではない”」、ということです。何を着ていようとも、自分がひとかどの人物であると相手に思わせる力があるのであれば、ドレスコードなんて破ってしまっていい。

自分自身が足掻いて勝ち取った自己肯定感があれば、相手がひとりだろうと複数であろうと、そこに迎合することなく、自身の尊厳を保ちつづけることができる。だから一挙手一投足に気を取られることなんてないのです。

ひとりひとりと相対する

相手の言動で一喜一憂しないための方法は、上記の通りの「正しい自己肯定感を身につけること」以外に、「歩留まり的対処術」なるものがあります。前述のナンパであれば、「ナンパ講座」などではこちらの方法でレクチャーされることが多い。いわゆる「このやり方でアプローチすれば、4割の確率で返事がもらえる」といった考え方です。

「4割なんだから」と思えば、振り向いてもらえなくても絶望はせずに済みます。しかし、これもまた自分の判断ではありません。大勢、権威に縋り、彼らがいうOK・NGラインを鵜呑みにしているだけです。なにより、相手を人扱いしていない点が問題です。「このアプローチなら、成功の確率は4割」。これは相手のことを人扱いしていません。工場生産での不良品率を算出しているのと同じことです。「人間を貧しい存在にする」と宮台さんはおっしゃっていました。

自由な試行錯誤によって培われた自己肯定感があれば、意見が相手に否定されようとも、それで絶望することはありません。相手を嫌いになることもありません。「そういう考え方の人なのか」と理解するだけです。そして、自分と違う考え方を持っているからこそ、相手を大切にします。相手の意見のほうが正しいと思えば、尊敬をします。この分野はこの人に意見を聞いてみることにしよう、と思ったりする。外部ブレーンをまた見つけたぞ、くらいのものでしょう。

コーナーのラスト、時間切れ間際のところで宮台さんはこんなことをおっしゃいました。

頭が悪くても、頭がいい奴が友だちだったらいい。
喧嘩が弱くても、喧嘩の強い奴が友だちだったらいい。
英語ができなくても、英語ができる奴が友だちだったらいいんです。

自信のないヘタレが、何もかも自分でやらなきゃいけないと思ってますます沈没していく。ざまあみろ!

いまからでも、正しい自己肯定感を培っていけるだろうか

自信のないヘタレ。まさに私のことです。学生時代からずっと、「崇高なものと一体化」することで自信を保ってきました。成績、学校名、先生や親から褒められること。自分が知りたいから勉強するのではなく、「与えられた課題をこなせば評価されるから」、やるのです。おかげさまで、学んだことのほとんどは忘れました。

だから自信なんてないんです。だから相手の一挙手一投足が気になるんです。句読点のないようなメールが届いたら「面倒くさがられているのかもしれない」と落ち込みますし、私の意見を「違う」と正す人がいたら「私のことをバカだと思っているに違いない」と思い込んで消えたくなります。自分の存在に自信などないのです。

でも私の周りには、優れた人がたくさんいます。

頭のいい人、たくさんいる。喧嘩の強そうな人もいる。英語ができる人もいっぱいいる。スポーツの達人もいるし、ファンがもりもりいる人気者もいる。私はだめかもしれないけれど、こんな私と付き合ってくれる知人がいっぱいいます。

自信のないヘタレが、何もかも自分でやらなきゃいけないと思ってますます沈没していく。ざまあみろ!

「できない」=自信を失うきっかけ ではない。できないというのはひとつの事実にすぎず、存在すべてを否定するものではありません。できない部分を補ってくれる友人・知人がいるなら、それを誇ればいいのです。

まだ、完全に前向きな考え方にはなれていないけれど、考え方を変えるチャンスをもらった気がしました。正しい自己肯定感を身に着けたい。強くなりたい。相手の言動ひとつひとつで落ち込むような、薄っぺらな大人を卒業したいです。

▼音声はこちらから聴けます
社会学者・宮台真司が中学教育から「日本の自己肯定感」を考える