言いたいことやまやまです

2022年2月に出産した1985年生まれの主婦です。資料作成が好き。

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「ありがとう」は言えばいいってもんじゃない

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こんばんは、懺悔の時間です。

GW前から、猛烈にやる気が湧かない仕事をしています。偉い人の講演資料を作るという愉快な仕事です。GW前から発生しているのですから、GW明けにも当然対応することになりました。低気圧とあいまって気分最悪です。

自分でもびっくりするほどこの業務に対するやる気が湧かず、むしろ嫌悪感や怒りの気持ちがこみ上げるほどなのです。その熱さをなぜ「やる気」にシフトチェンジできないのか……感情とは不便なものです。

しかも、嫌味を言われるでも、罵倒されるでもありません。人間関係に波風は立っていないなかで、ただ講演資料をつくるだけ。それなのに、どうしてここまで苛立ちを感じるのでしょう。怒りは心をすり減らして疲れるだけなので避けたいです。

なんでだろう。その答えはひどいものでした。サラリーマンがそれを言うか!と笑っていただければ幸甚に存じますが、イライラの原因は「ものすごく”使われている”感じがする」からです。サラリーマン歴10年目にして成長なしです。私の前世は王だったんじゃないかと思います。そうとでも思わなければ、あまりにも身の程知らずなこの感情を整理することができません。

どんなにやりたくなかろうと、社から命が下ればやらねばならぬ。それがサラリーマンというものではありませんか。でなきゃ給料泥棒だ。

しかし不思議なもので、やりたくない仕事だったはずなのに、そこにやりがいや魅力を見出すときというのもあります。

最初は広告業界に身を置いていましたから、案件ごとに「やりたい度合い」というのはずいぶん変動していました。どのクライアントを担当するかなんて、ほとんど「運」。全然関心がない、ずいぶんと堅い業界の担当になってしまったときはゲンナリしたものです。
しかしフタを開けてみれば、その「お堅い業界」業務は私の社会人生活において最もかけがえのないひとときとなりました。携わっていた方々が大変に魅力的で、ぺーぺーの私をいちメンバーとして対等に接してくださって、クライアントのご担当者も気さくで、その業務は絶対に譲りたくないものになったのです。私ごときを必要としてくれて、ありがとうの言葉と達成感をくれる、すばらしすぎるチームでした。

「必要とされる」「感謝される」その結果「達成感を得る」。

これがきっと、「やりがい」なのです。社会に貢献しているとかお客様を喜ばせているだとかそんなのは私にとってレベルが高すぎる話で、もっと身近なことに「やりがい」を見出していたのです。

翻って、いま抱えている仕事についてです。

調子に乗った表現を用いますが、私は、他の人よりも資料作成能力が高いという理由で任命されています(実際は、いちばん暇そうだからです)。でも、光栄なことだとは微塵も思いませんでした。

なぜかって、「そこに感謝がなかったから」。

私は偏見が強い方で、かなり色の濃いフィルタを通して見ているという前提があるのですが、現在の業務の依頼主(偉い人)は、私に感謝などしていない、と感じているのです。

「ありがとう」という言葉はかけられても、その音がどうにもこうにも「ありがとう」に聞こえないのです。私の腐った耳には「やって当然でしょ」とかすかに聞こえてきます。

私に感謝していようがいなかろうが、その「ありがとう」を真に受けた方が精神衛生上はよいのです。そう思いこんでおけばよいのです。それはわかっているのに、頑固な私のシックスセンス的な何かが、どうやっても偉い人の言葉を「仕事なのだからやって当然」と聴き取ってしまうのです。そりゃ、やりがいは湧きません。自分でそう仕向けているようなものです。

都合の悪いように聴き取って、勝手に「使用人のように扱われていて不快」と苛立つのですから、本当に、ここに存在してすみませんという気持ちにもなってきます。生意気すぎる。何様だ、平社員様だ。

ひとまず、乗りかかった船である以上、現在の業務はなんとかやりきりましょう。もし次回以降に同様のお仕事が降ってきたら、会社の命令であろうとなんだろうと断ります。クビになったっていいです。そのくらい、やりがいを感じられません。虚しいくらいです。

誰にいじめられているわけでもないのですから、職場の人間関係と業務量に悩んでいた過去の自分から「そんなの贅沢な悩みだ」と怒鳴られそうです。

しかし、贅沢だろうとなんだろうと、自分がやりたいことや心地良い環境を手繰り寄せる努力は悪ではありません。会社の命に背くというのはその会社のなかでは悪事かもしれませんが、ひとたび外に出ればそうとも限りません。

嫌なことでも引き受け、我慢してやりきることだけが、「がんばっている」ことになるのでしょうか。「我慢してこそオトナ」てな具合で、響きはよいですけれども。批判の目を向けられたり給料を下げられたり、そういうデメリットを受け入れてでも自分の希望を手繰り寄せるよう努める。サラリーマンとして褒められたことではないけれど、それだって「がんばり」のひとつの形であると思います。「人でなし」ならぬ「サラリーマンでなし」扱いはされるでしょうけれどね。

とにもかくにも、がんばって働いていない人間が、今日も偉そうにすみません。ありがたいと思っていないけれどありがとうと言わざるを得ないシーンだってありますものね。自分の言動を振り返ると、反省ばかりです。

これにて今晩のところは失礼します。