言いたいことやまやまです

自意識過剰なアラサーOLの言いたくても言えないこといろいろ(食ネタ多めで)。

「強さ」って何だ/NETFLIX『火花』感想

第153回芥川賞を受賞した、ピース・又吉直樹の『火花』。動画配信サービスNETFLIXオリジナル作品として、全10話からなる実写映像化がなされている。

売れない漫才コンビ「スパークス」の徳永(林遣都)と、「あほんだら」の神谷(波岡一喜)は、ともにネタを書くボケ担当。ひょんなことからコンビを超えた絆でつながれた2人は、それぞれに夢に向かって走りながら、つまずき、倒れ、もがいていく。

原作の小説を読まずにドラマを視聴したので、その感想を記しておきたい。

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 「売れる」とはどういうことか

芸人になったからには「売れたい」と思うのは当然のこと。その意味は人によって異なるだろう。「モテる」ことが「売れる」である者もいれば、「金持ちになる」ことが「売れる」ことだとする者もいる。

ネタを書き、笑いを生む立場にある徳永と神谷にとっての「売れたい」とは、「俺の笑いを認めさせたい」だったのではないかと思う。


当事者たちの視点から一歩引いて「売れる」とはどういう状態を指すかを考えてみる。それは、「提供するものに価値を見出され、対価が支払われる状態」だ。多くの人が価値を見出せばひっぱりだこになり、取り合いになり、対価が上昇していく。需要と供給の関係が成立し、供給が追い付かない状態。

ひと言でまとめれば「求められる存在になる」ということだろう。


「俺の笑いを認めさせたい」という想いはまっすぐだ。自分と、目指す方向のことしか見ていない。たどり着くためにどうするか、求められるためにどうするか、その工夫に向き合おうとしていない。

神谷と、彼を師と仰ぐ徳永の2人は、「そんな小手先のテクニックに頼ってたまるか」と言わんばかりに、まっすぐに自分の笑いを供給し続ける。
人はそれを「一方的」と称すだろう。 

「媚び」は低俗か?

2人はしばしば「笑いの哲学」を語り合い、2人にしか通じない「1行ボケ」をメールで送り合う仲だった。

ハイボールを飲みながら、神谷は弟子・徳永に「批評なんかに耳を貸すな」と語り、徳永はそんな師匠・神谷を「誰にも媚びず、戦う姿勢を崩さない」と評した。

それぞれに「己の笑い」を貫きながら仕事に臨むのだが、とりわけ個性の強い神谷のコンビ「あほんだら」の芸は、漫才の域を越えて「事件」になってしまうことが多々あった。
そのきわどさに、笑いを見せるのは一部の客だけ。多くの客はざわつき、笑いとは真逆の不安の表情を浮かべるほどだ。

「お客さんが笑わない漫才って、漫才なの?」

後輩芸人がぽろりと漏らした言葉に、考えさせられる。

漫才を披露する場での需要とは、「客が笑い、楽しくなること」だ。「己の笑い」が需要とマッチするならラッキーだが、そうでないのならば、それは「自己満のアート」でしかなく、売り物にはなりえない。

自分がおもしろいと思うものが受け入れられない徳永たちのもどかしさを描く一方で、対照的な存在となっていたのがピン芸人の「鹿谷」である。

コンテストで披露した芸は、事前準備の甲斐もなくことごとく失敗。しかしそれがかえって客の笑い(その時点では嘲笑だが)を誘い、グランプリを獲得してしまう。

彼は「大衆ウケの権化」と言わんばかりに、ことごとく俗っぽかった。バラエティ番組からの声がかかれば、舞台裏では「兄さん、おいしくいじっていただいて、ありがとうございます!」と先輩に深々と頭を下げるし、プロデューサーにキャッチ―な挨拶を求められれば、「鹿谷で、しかたな~い!」。衣装は鹿のセーター、頭には鹿のツノ。

神谷と徳永の追求するものがアート性を纏った「己の笑い」であるならば、鹿谷は「俗な笑い」を全力で表現していた。

結果、テレビのレギュラー番組を勝ち取ったのは鹿谷だった。ファンの女の子は、嬉々として鹿のツノを頭につけていた。

人は他者の目なしでは生きていけない

徳永は、おそろしくマイペースでブレない神谷に憧れていた。彼のように自分を貫けないことが、情けない。俺も世間なんて気にするものか、と思い聞かせているように見えたが、ここぞというところで、相方やプロデューサーの俗っぽいアドバイスを受け入れてしまう。渋々やった、ノリのいい掴みのギャグ。スタイリッシュな衣装。

だが徳永の気持ちとは裏腹に、少しずつ徳永のコンビ「スパークス」はブレイクしていった。ラジオやTVに出演し、単独ライブも大盛況。

片や神谷は、相も変わらず「俺流」だった。売れるどころかどんどん干されていった。それでも、徳永はその姿に憧れを抱いたことだろう。

しかし、同居していたガールフレンド・マキに振られた途端、神谷は崩れ始めた。
神谷が強くあれたのは、マキと徳永が自分を認めてくれているという確信を持っていたから。2人のことを想えば、自分が社会に求められていない存在であることに、目を背けることができたのだろう。
神谷は神ではなく、社会のなかで生きるひとりの人間にすぎなかったのだ。

心の柱を失った神谷は、毎夜のように酒におぼれた。
酔いつぶれて吐しゃ物とともに路上に横たわり、電話口で徳永に問いかけた「俺のいいとこ、10個言うて」。その姿が痛々しい。

人は、自分のことを自分の目で見ることができない。だから「他者の目」という鏡を通じて、自分の姿を、価値を察する。

もしも「ほんの僅かでも、自分を求めてくれる人がいたら幸せ」というレベルを超えて、「価値ある存在としての自分」を求めるのなら、世間に広がる優しい目も、厳しい目も、見下してくる目も、ひとつでも多くの目を味方につける必要がある。

どんなに才能に溢れていても、自分に無関心な他者を振り向かせるには、彼らが何を求めているかを知り、その需要にあった形で才能を提供しなければ、求められる存在にはなれない。

神谷には才能があったが、他者の目を真正面から見つめる勇気がなかったのだ。

柔軟性こそが強さ

突然だが、歩道橋の上でジャンプをしたことはあるだろうか。
幼いころ、ゆらゆらと波打つ歩道橋に怯えたものだ。地震が起きたら、ここは崩れるに違いないと思った。
しかしご存知の通り、揺れるからこそ強いのだ。外部からの衝撃を吸収して、受け流してしまう。 

こだわりが強く、自分をまっすぐに貫こうとする神谷や徳永は、いわば、柔軟性のない堅い歩道橋。急所を突かれれば、ボキリと折れてしまう。

本当の強さとは、世間に迎合し、ときに道化になり、プライドをズタズタにされても笑っていられるような、そんな柔軟性を備えることなのではないかと思う。

全10話のドラマを観て、「人としての強さ」に想いを馳せた。
私は、道化を求める視線にさらされたとき、道化役者になりきれるだろうか。

Netflix火花お題「ドラマ火花の感想」

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